私たちは配偶者が現われるのを待ち、祈りの答えが来るのを待ち、反抗的な子供がまともになるのを待ち、
仕事口が見つかるのを待ち、健康がよくなるのを待ち、葛藤が終わるのを待ち、経済的な圧力から
抜け出すことを待ちます。待つことは、私たちのための神の計画の一部です。神の時を待つことがすなわち、
忍耐です。私たちは待つことを通じて忍耐を学びます。
信仰の英雄たちのリストを見れば、じっと待ち続けた人たちで満ちています。ダビデ王はサウルを逃れて、
アドラムのほら穴で待ちました。モーセはイスラエルの民をエジプトから導き出すに先立って荒野で40年待ち、
再び、荒野で40年間、さまよいながら過ごしました。ヨブは大切にしていたものをすべて失い、神を待ちました。
エリサベツとゼカリヤは老いるまで待ってから、特別な子どもであるバプテスマのヨハネを生みました。
使徒パウロは監獄で釈放されることを待ちながら手紙を書いたのですが、それが今日の新約聖書の一部に
なったのです。 また、神は世の中の罪を贖うイエス・キリストを送られるために「時が満ちるまで」待たれたのです。
このように私たちが神の主権にどれほど屈服し、生きているのか「待ち続ける」という渦の中で試みに会います。
神は、私たちが運命論的な観点で諦めきった状態で待ったり、焦って心配したりすることを願われません。
待つことを通して神がすべてにおいて主であられ、そのすべての時間の調節においても主であられるという告白を
願っておられるのです。