東西ドイツがまだ分かれていて、聖書がその鉄のカーテンを通過するのが難しかったとき、私たちの同僚の
何人かがロシア語の聖書を持って、東ドイツの国境を越えようとして捕まったことがありました。
そのとき、私たちは多くの聖書を失い、私は失望しました。私は神に「私たちが何か間違っていたでしょうか。
こんなことを許される理由は何ですか。大変な浪費ではないですか。こんなことがあなたの御心であるはずが
ありません!」 私は繰り返しこの質問をしましたが、明らかな答えは得られませんでした。
それで、私はその問題を未解決のままにしてただ待つことにしました。
1989年ベルリンの壁が崩れて何ヵ月後かのある日、朝刊を開くとそこに、東ドイツの秘密警察である
シュタージが、私たちから押収していったロシア語の聖書を全部、最近ロシアにある教会に船便で送ったという
ニュースが載っていたのです。二万冊の聖書!一冊も無くなっていなかったのです。
ただの一冊も無駄にはなりませんでした。その新聞を通して答えを知り、私はやっとその問題が理解できました。
神が沈黙しておられるときにも、私たちはあきらめてはなりません。
「私は一回以上は祈りません。初めに祈ったとき、神が聞いてくださったと信じているからです」というクリスチャンが
最近だんだん増えています。しかし、私は休まずに祈る意思がないなら、とりなしの祈りはできないと信じます。
私は機会だけを待ってはいません。後ろに下がって、「神様、祈りましたからそれでいいですよね!」とは
言いません。
すべての祈りが重要であるからこそ、私は神がそのことをなさったということを知るまでは休みません。